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【Like a Sunrise.】オリジナル系サウンドノベルを手がける素人の個人サークル。グラフィックからスクリプトまで何でもござれヽ(・ェ・)ノ

一人称と三人称

あくまでも僕なりの認識です。
物語における一人称とは、その対象となる人物の主観である。
その者の目線でフィクションが書かれ、読み手はそれを追う。

三人称はそれが客観的に書かれていると。

どちらにも味があって書き方によってどちらでも選択することが出来ます。どちらを選択するのも書き手の自由ですが、選択する理由というのはあった方がいいのではないかなと思います。 想像しているフィクションを登場人物の目線で見せた方が効果的か、客観的に見せた方が効果的かなど。
好きなように書けばいいじゃねーかとも思いますが、そういうことを前提に踏まえて好きなように書いてくれとは思います。

『Chaos Breakers』シリーズでは一人称を採用しました。
出来うる限り完全なそれを目指して。
三人称だと登場人物個人個人の関係性よりも『フィクション中の出来事』の方に重きを置く……のかなぁと。
一人称の方が人物の関係性を見せることが出来るのではないかと。
人間の見えない部分(思考や過去など)が主軸となるわけで、一人称が適当かなと。

テキストを書く上で一番気にしていることに、瞬間的な感覚というものがあります。
人間同士の会話において、しゃべりながらや合間合間にどういうことを考えるか、これは本当に自然な会話か?など。
不自然な会話というものは読み手は『何か意図があるのかな』とか『どういうことこれ?』など考えてしまうものです。
会話を例に挙げると……

(Aの一人称視点とします、Aは初めてそこを訪れる、Bはそこの管理人)
A「すごい数の本ですね……何冊くらいあるんですか?」
B「そうですね、ざっと三十万冊といったところでしょうか」
A「三十万!……ということは一日一冊読むとして、えーっと何日かかるんだ?」
B「三十万日ですね、約八百年くらいですか」
A「あ……そうか」

適当に書いたのであれですが、これから何が見えてくるか?
おそらく『約八百年』に何かを感じるんじゃないかと思います。
つまりBはAの言った何日という意味を瞬時に理解して約八百年という数字を提示した。
(年と日を間違えたんだなと)
それを言われてAは年と日の間違いに気付くと。

この場合、約八百年という提示の意味として、Bは頭の回転が速いという設定なら活きますね。
そうでもないならBが提示する必要もないのかなと。

これが作中に出てくるシーンとして蔵書の三十万という数字は、それだけの本がありますよと読み手に提示する役割を持っています。
セリフでリアクションを書いてあげれば、地の文章でそれを書く必要はないわけで。
ただ約八百年という提示にはBの設定を提示するくらいの要素しかありません。
書き手の欲でそういう数字を提示することは、フィクションに水を差す行為であるともとれます。
そういうものは受け手がフィクションとは別の次元で勝手に考えりゃいいんじゃないのかなと。

上記の例を実際に使う場合、僕ならテキストはそのまま使いますね。
スクリプト上で会話の間を意図的に用意するくらいで。
場やBの様子は背景と立ち絵で見せれば成立する……のではなかろうかなと。
場の様子がフィクションに必要な要素であれば、主人公Aに周りを見渡せてあげればいいだけの話です。
(Bの立ち絵と会話ウインドウを消して、読み手に背景を何秒か見せる、必要なら主人公の感想を一言二言。)

話を一人称に戻します。
究極の一人称とは何かなと最初に考えました。
表面上で言うなら背景や一枚絵(イベントCG)全てを主人公の目線のものにする。
対象となる主人公の絵はそのシナリオでは使用しない。
そしてテキスト上では、『主人公に書き手の思想を適用しない』ということですか。
作家さんなんかは当たり前のことだと思いますが。

書くのは作家なわけですが主人公はフィクションの中を生きる存在で、その人物なりの考え方、主義、主張、思想などあるわけです。
現実世界を生きる僕らには僕らなりの社会や倫理観などがあって、フィクションにはフィクションのそれが存在します。
作中の登場人物は作家じゃありませんから、作家の都合でものを言わせていると徐々に変になっていくだろうと思います。
ちゃんと生きている存在にしてあげると、この辺が作家に求められる想像力じゃないのかなと。
お話を作ること自体はそう難しくはないと思うのですが、細部までのそういった配慮、受け手の想像力をどれだけ信じられるかという部分は書くだけに集中してしまうと見えなくなってしまいますね。

書きつつそれを客観的に見てみるということも忘れてはいけません。
セリフなんかは声に出して読んでみたりはしますね、録音して聞いてみたり。
小説などの書き言葉よりも話し言葉に近づけて、おかしな部分は修正するようにしています。
書き言葉でしゃべる人というのも不自然なものでしょう。
最近のネットや若者の間で用いられてる表現、つまり普遍性がまだ薄い表現なんかは年代によっては違和感しか与えないので書かないようにしています。
当たり前っちゃ当たり前ですが。
(〜〜じゃね?、違くない?、とりま等)

文章が長すぎると読み手はつらいんじゃないかなぁとか、ここ長いとテンポ悪いかなぁなど見えてきます。
読み手をあまり意識していない、フィクションを書くということに夢中になっている文章は読んでてきついもんです。
丁寧に一から十まで全てを文字で説明されては読み手は想像する余地がありません。
これは『読む』というよりも『読まされている』に近い感覚を持つのではないのかなと思います。
これじゃ物語は楽しめないのではないのかなぁと。
人間というものは裏側とか書かれていない部分こそ読みたがる。
だからこそ書かないことがある種の親切でもあると考えています。

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